作者と「フランダースの犬」                    

                  
 

『フランダースの犬』の作者、ウィーダ(本名マリア・ルイーズ・ド・ラ・ラメー)は1839年1月1日イギリスで生まれました。 幼い頃にルイ−ズと発音できずウィーダと言ったのがペンネームとなったそうです。そして、その生涯は、まさに波乱万丈だったようです。
               
父はフランス人、母はイギリス人で、ウィーダは父方のラテン系の気質を受け継ぐ、情熱家だったと推察されます。船員だった父は、ウィーダ生誕の頃から不在気味になりウィーダは母の手で育てられました。
 
読書好きで文才に恵まれたウィーダは、20歳でロマンス小説作家として文壇にデビューし、人気作家となります。20代は、ロンドンの一流ホテルのスイートルームに住み、華やかな生活を送りました。
 
28歳の時、40歳年上のイタリア人オペラ歌手と恋に落ち、恋人を追ってイタリアのフィレンツェに移住しますが、
その恋は実らずに終わりました。
恋愛では挫折したものの、30歳(1869年)には作家として不動の地位を確立すると共に莫大な資産を築き、
イギリスとイタリアの社交界を中心に華麗な生活を送りました。

犬好きだったウィーダは、イタリアで何匹もの犬と暮らし、30代の頃は、犬にもフォアグラやキャビアといった高級な
食べ物を与えていたと言われています。イタリアの動物愛護協会の設立にも貢献しました。
 
32歳の時(1871年)、ベルギーのアントワープを旅行し、翌年(1872年)この経験を元に『フランダースの犬』をイギリスで出版しました。
当時、アントワープの村は貧しく、馬を持てるのは金持ちだけで、庶民は馬よりも安い犬に荷車を引かせていました。
力の強い犬をかけ合わせたのがフランダース犬で、物語のモデルとなったブービエ・デ・フランダースです。
ブービエ・デ・フランダースは、フランドル地方(中世時代フランス、ベルギー、オランダに領土がまたがった国) が発祥の地です。
 
『フランダースの犬』出版から6年後(1878年)、ウィーダは再び大恋愛を経験しますが、その恋人はウィーダの友人とも恋愛関係にあり結局この恋も実らずに終わりました。
この頃のウィーダは、恋愛関係で挫折と苦渋の思いを経験する反面、作家としてはイギリスで作品が続々とベストセラー入りし、人気の絶頂期を迎えました。
 
40代に入ると、情熱溢れる作品を発表し続ける一方で、詩情に満ちた短編小説やエッセイを出版するようになります。
プライベート面での度重な辛苦に満ちた経験が、ウィーダの作風に影響を及ぼしたのでしょう。
 
若い頃から華やかな生活を続けてきたウィーダですが、金銭に無頓着な性格もあり、50代になると資産が底をついてしまいます。
55歳の時(1894年)にはとうとう家賃が払えなくなり、馬車に押し込められ、居住していたルッカ郊外のヴィラを追い出されてしまいます。
その後、イギリス人が多数住む山間の温泉地にあるホテルに引っ越しますが、不慣れな田舎暮らしと犬が原因となり、再び追いたてに遭います。
 
的にひどく困窮した状況で、ウィーダの動物への愛情は深まる一方だったようです。
この頃のウィーダは、自分の食事はろくにとらず、犬や猫にエサを与えていたと伝えられています。
ウィーダはイギリス政府から小額の年金を受けていましたが、そのお金も、犬や猫の食事代に使っていたと言われます。
誇り高い人物だったため、友人らの援助申し出も断ったとか。
60歳半ば頃には、駅前広場の馬車の中でホームレス的生活を送るようになりました。
厳冬の中、ウィーダは肺炎を患い左目を失明、見かねた人たちが安アパートに収容しました。
しかし衰弱が激しく、1908年1月25日、ヴィアレギオという町で看取る人もなく、69歳でこの世を去りました。
孤独なウィーダの死を悼んだのであろう、ルッカに駐在していたイギリス領事が、ウィーダの友人たちから募金を募り、バーニ・デ・ルッカにあるイギリス人墓地に墓を建立、そこに埋葬されました。

ウィーダは、作家として成功し、いったんは富豪になりましたが、心の底から信頼出来る友人はいなかったようです。
裕福になればなるほど、人間に対する不信感が高じ、恋人たちの心をも疑うようになったと言われます。
対人関係での満たされない思いが、人間を裏切らない犬へと注がれていったのでしょう。
 
興味深いのは、悲劇的結末を迎える『フランダースの犬』が、作者ウィーダの人生の絶頂期とも言える32歳の時に書かれたことです。
 

当時の彼女の作品は、明るいロマンス小説が多く、これでもかと言うほどの不幸に襲われ続ける孤児ネロと愛犬パトラッシュの物語『フランダースの犬』は、ひときわ異彩を放っています。
もしかすると、表面的には華やかな生活を送りつつも、ウィーダは既に人間社会の不条理を強く意識していたのでしょうか、、、。
『フランダースの犬』の中に、当時の社会の閉塞性を垣間見る思いがします。
 
日本で絶大なる知名度を誇る『フランダースの犬』は、地元ベルギーのアントワープでは、意外にもほとんどの人々が知りませんでした。
何年か前(10年くらい?)の新聞記事に「フランダースの犬、地元では?」という記事がありました。
「フランダースの犬」というと、日本では大半の人が知っています。本を読んだことがなくても、テレビのアニメ番組で見た人は多いと思います。それなのに物語の舞台となったベルギーでは知られていないという内容でした。

記事によると、ネロと老犬パトラッシュが牛乳を運んだアントワープは1990年代にそれまでほとんど見なかった日本人観光客が急増し「フランダースの犬」にゆかりの場所はどこにあるのか尋ねるようになったそうです。
しかし、街の人たちは何のことやら、さっぱりわからない。
そこで、市の観光局のヤン・コルテールさんが調べたそうです。本もアントワープの人達が話すフラマン語(オランダ語の方言)の翻訳がないためベルギーでは誰も知らなかったようです。
しかし、日本では1908年に初めて翻訳され、戦後も絶えず紹介されてきました。
さらに1975年にテレビアニメが放送されて人気を呼び、ネロの最期に涙した子供達が成長して、海外旅行でベルギーを訪れるようになったそうです;

興味を持ったヤン・コルテールさんは、ウィーダが物語を書いた1870年頃の古い地図と住民帳を調査したところ、ネロが住んでいた村がアントワープ近郊のホーボーケンだとつきとめました。
さらにネロが仲良くしていた少女アロアの風車小屋がホーボーケンに実在した事まで解明します。
ヤン・コルテールさんの友人で、パトラッシュ.NETを運営する大島氏のご好意で、長年の夢だった「フランダースの犬」の舞台を訪ねる旅が実現し、ヤンさんにお会いすることが出来ました!
2003年にノートルダム大聖堂の前にネロとパトラッシュの石碑が建てられ、最近は地元でも徐々に、『フランダースの犬』に対する認識が高まっているようです。
この石碑はトヨタ自動車さん出資で、ここに刻まれたメッセージはヤンさんと大島氏によるものです。

また、作者は必ずしも19世紀のアントワープに魅了されていたわけではありません。
しかしこの街を、巨匠ルーベンスが生き、そして葬られたことから「聖なる地」と評しました。
「ルーベンスがいなければアントワープなんて?」と「フランダースの犬」の中で彼女は書いています。

窮乏の中、1人寂しくこの世を去っていったウィーダですが、『フランダースの犬』は没後100年以上く経った今も世界中の人々に愛読され続けています。私のお気に入りは村岡花子さん訳です。


                      
                                                         


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